マイプラネタリウム maiplanetarium

I'm planetarium curator, fan of stars, minerals and Japanese Sake.

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新暦調御用所(天文屋敷)跡




我が家からすぐのところに、日本出版クラブ会館というところがあり、

理科大天文研の七夕コンパなどでよく使う宴会ホールがあるのですが、

そこは江戸時代の天文台のあったところなのです。




神楽坂へ引っ越し、

暦番組を作っている真っ最中で、自分の中では「江戸」がマイブーム(^^)v




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<書いてある文章> #読む気のある方はどうぞ

当地は天正十八年徳川家康が江戸城に入府する迄、上野大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の一部であったと推定される。牛込氏の帰頓によって城は廃城となり、取り壊されてしまった。正保二年居館跡(道路をへだてた隣接地)に神田もあった光照寺が移転してきた。その後、歌舞伎・講談で有名な町頭幡院長兵衛が、この地で旗本奴党首の水野十郎左衛門に殺されたとの話しが伝わるが定説はない。
享保十六年四月、目白山より牛込・麹町・虎ノ門まで焼きつくした大火により、この地一帯は火除地として召し上げられさら地となった。
明和二年当時使われていた宝暦暦の不備を正すため、天文方の佐佐木文次郎が司り、この火除地の一部に幕府は初めて新暦調御用所(天文屋敷)を設け、明和六年に修正終了したが、天明二年近くの光照寺の大樹が観測に不都合を生じ、浅草島越に移転した。佐佐木は功により、のちに幕府書物奉公となり、天明七年八十五歳で没す。墓は南麻布光林寺。以後天明年中は火除地にもどされ、寛政から慶和までの間、二~三軒の武家や好きとして住み続けられた。
弘化年中には御本丸御奥医師の山崎宗運の屋敷もあった。この時代の袋町の町名は、今に至るまで変わることはなかった。近世に入ってからこの地に庭園を構えた高級料亭一平荘が開業し、神楽坂街をひかえ繁栄していたという。
昭和二十年の大空襲により神楽坂一帯はすべて焼失し焼跡地となった。戦後は都所有地として高校グラウンドがあったが、昭和三十年日本出版クラブ用地となり開館建設工事を進めるうち、地下三十尺で大きな横穴を発見、牛込城の遺跡・江戸城との関連などが話題となり、工事が一時中断した。昭和三十二年開館完成現在に至っている。



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